• 森林整備によって、副次的に生み出される山の恵みをおすそ分け

    なぜ、台風19号による大雨によって堤防が破壊されるような甚大な被害が生じたのか?

    堤防の強度が弱かったため、温暖化によって想定外の雨量が降ったため、ダムが緊急放流したため、など様々な考えがあると思うが、水害は昔から発生してきたものである。今日、始まったものではない。

    元来、日本では自然と共生する中で、減災が基本パターンであった。

    しかし、明治以降、現代は絶対に水を堤内に漏らしたらダメとの国交相の考えに至っている。

    それは、国民の要求でもある。

    一つに自然は支配することができるという、思考の西洋化の影響である。他方で人命の価値が上昇したということも言えるだろう。人命は平等で尊いから全ての地域の人を守らなければいけないという考えである。

    今の国交相の治水計画(スーパー堤防)だと完成まで400年かかる。50年経てば、護岸コンクリートの耐久期限がすぎてしまうのだから、計画はすでに破綻している。しかも全国主要6河川のみの計画である。参考文献:宇沢弘文「社会的共通資本としての川」

    このような治水政策と同じ状況にあるのが、山村の獣害被害の対策であると私は考えている。

    昨今、日本の山村では、田畑を荒らす獣害の深刻さが叫ばれている。

    鹿や猪が田畑に入らないように柵で囲っているのだが、田畑を一つずつ囲うのは手間なので、集落を全て柵で囲っているのである。これは獣を柵で囲うのを諦め、人間が柵の中で生活することを選んだということである。費用対効果を考えると檻の中で生活することが一番よい選択だということである。

    これを堤防の治水に当てはめると、河川の全てをスーパー堤防にする計画は破綻しているので、人が生活しているところを効率的に守りましょうということになる。災害にあいたくない人は都市に、獣害の檻のようなものを作って生活することになるだろう。

    人命が尊いということは、一人一人が人生を選ぶ自由があるということに変わりない。どのように生きるか選ぶことは、どのように死ぬか選ぶことである。

    安心、安全で平穏な無風状態に管理された社会で生きるか、自然の中で生きるか死ぬか生の実感をひしひしと感じながら生活するのか?どちらを選ぶ権利も自由も、もちろんすべての国民にある。また、両立すべきだと考えている。