• 森林整備によって、副次的に生み出される山の恵みをおすそ分け
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    安冨歩の『生きるための経済学』を読んで、自分の幼少期が、水に入れたドライアイスの煙のように、モクモクと不気味に脳内から耳や鼻や目の隙間を通ってもれ出てきた。

    小学校の頃、教育ママに育てられ、なぜか運動神経も抜群でクラスでも中心的な子供だった。

    しかし勉強ができ、スポーツもできたため、どっち付かずになったのかお受験には失敗した。

    お受験の失敗などは、まったく気にも留めなかったが、中学生になると子供社会の構造が大きく変わった。スポーツができるやつでも、勉強ができるやつでもなく、不良が学校の中心的な存在に突如として変わったのである。

    そこで私は不良になった。この頃からそうだ。既得権益者である大人に我慢できない。

    この社会に我慢は必要なのか?

    確かに自分の子供に我慢強くなってほしいと思う親は多いだろう。自分の子供の名前に我慢とつける親はいないだろうが、我慢強い子供と我慢弱い子供、どちらがいいかと聞かれたら我慢強い子供と大半の人が答えるだろう。その価値観が社会にはびっこっているのは間違いない。

    また、私の祖父は浄土真宗の熱心な教徒であったが、子供の頃の私はそんな念仏を唱えるだけで悟りを開けるわけがないと考え、やはり苦行が重要で、真言密教がかっこいいと思っていた。

    現在、私は裸一貫で林業会社を創業し、経営しているのだが、林業界は職人の世界である。石の上にも3年といわれるが、技術を身につけ一人前になるためには10年かかる。では私が10年間、我慢したのかというと、そうではない。確かに体がきつかったり、サボりたい日もあるが技術を身につけるための期間を我慢だと思ったことはない。

    我慢とは、白川静『常用字解』で調べると、我はワレ、慢はさげすみの感情を込めて流し目で見ることと書いてある。自分がやりたくないことを、何かの力によってやらされている状態を、自分がさげすんでいる時が我慢している時だということになる。

    我慢は欺瞞である。欺瞞は創発を阻害するものである。

    私は高1の1回目の頭髪検査の直後に無期停学になり、不登校になりながら仮病と屁理屈を駆使してなんとか大学に進学した。あの時に、頭髪検査の列に並んでいた奴らは、まるで屠殺場に向かう豚であった。きっと、もう死んでいることだろう。

    もう一つ私が大きな欺瞞だと感じるものは労働である。働かざるもの食うべからずだ。なぜ、働きたくないのに社長なのですかと聞かれるが、他人に雇われて働けと言われるのが我慢ならないから社長をやっているだけである。

    我慢せず、労働せず、子供を育てていく仕組みの創発を目指して模索していく。

    本作はトラウマがないと思っている人こそ、読むべきだろう。再燃させたくない人は危険なので読んではダメだ。人にはタイミングがあると思うので。